2013年07月28日

チョコレ 咲-Saki-ぼんより用語解説01

 有珠山高校三年、獅子原爽の愛称。元は名前が判明するまでの仮称だった。

 元ネタは雑誌掲載時における枠外の謎の見出し。初めて爽の顔がはっきりと描かれたのは、第106局「出陣」で成香に「頼んだ」と告げているコマだが、爽の見切れている顔のちょうど真下に「チ ョ コ レ」なる謎の見出しが掲載されていた。それが絶妙な位置にあり、『咲-Saki-』ではお馴染みの校名・名前・持ち点などが書かれたウィンドウにどことなく見えたことから、有珠山高校のサイドテールの子=名前はチョコレ、というネタが定着した。
 顔出しから114局「調整」で名前が判明するまで、りつべの負傷入院などもあって1年ほど間が空いたこと、また爽の赤を基調とした配色(髪、ネクタイ、スカート)がなんとなくチョコレートのパッケージを思わせたことも「チョコレ」の浸透に一役買ったと推察される。
 なお、「チョコレ」は3人組アイドルユニットらしい(ChocoLe - Wikipedia)。爽は由暉子をアイドル雀士として売り出して打倒はやりんを誓っていたので、奇妙な一致とも言える。

【図解:チョコレ誕生のコマ】
咲-Saki-チョコレ

次号YG
NO.07 巻末グラビア4P

チ ョ コ レ

人気急上昇中アイドルトリオ「チョコレ」から
メリクリ&あけおめ!! スイート&フレッシュな
彼女たちの魅力を凝縮した、ハッピーグラビア☆

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2013年07月25日

『咲-Saki-』シリーズ新作『シノハユ』だぞコノヤロー

 小林立・五十嵐あぐりの『咲-Saki-』シリーズ新作『シノハユ』予告編が掲載されたぞコノヤロー。めっちゃ興奮していて二ヶ月後が待ちきれないぞコノヤロー。大方の予想通り小鍛治健夜や赤土晴絵の学生時代が描かれるっぽいぞコノヤロー。戒能プロがはやりんの電波メールを読み解いた連中にジェラシー感じてる、はやしこ割とガチでキテルぞコノヤロー。タヌキのくせに大人勢の私服が可愛いじゃないかコノヤロー。さては牛に弟子入りしたなコノヤロー。でも灼ちゃんのTシャツセンスはそのままなんだなコノヤロー。鳩ってなんだよコノヤロー。晴絵がスゲーイケメンだぞコノヤロー。すこやんがさっきあったねアピールしたり服装に気合い入れまくったり露骨すぎるぞコノヤロー。野依さんがまさかの新道寺女子出身だったぞコノヤロー。リザベーションの開祖はのよりん(とみさきさん)である可能性がなきにしもあらずだぞコノヤロー。晴絵が締めに入った時の阿知賀女子勢のポーズがガイジン四コマっぽいぞコノヤロー。「わーるいんだ」のコマの謎生物しずが可愛いぞコノヤロー。
 晴絵はやっぱりとんでもない大物だったじゃないかコノヤロー。魔物の親玉と後のトッププロ級二人に囲まれながら一矢報いたって、それだけでレジェンドだぞコノヤロー。全国大会二回戦の末原さんより酷い卓じゃないかコノヤロー。生きて帰れただけでも凄いぞコノヤロー。

しのばれる。自然に思い出される。しぬはゆ。

偲はゆの意味 - 国語辞書 - goo辞書 偲はゆの意味 - 国語辞書 - goo辞書


 シノハユちゃん(仮称)は故人の匂いがぷんぷんするぞ……。
 サブタイトルは「旧約青春麻雀物語」らしい。旧約といえば、そろそろぼくのかんがえたすっごい咲キャラ「ミッション系高校の生徒で敬虔なクリスチャン。常に聖書を携えていて、ことあるごとに聖書の文句を引き合いに出す。能力は『海割り』。開門をモーゼの奇跡に準えて、自分が開門した回は必ず大物手を和了る」が現実になってもいいと思う。

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2013年07月20日

荒川軍団(個人戦)か赤土・小鍛治年代か姉帯村の呪われし因習編か

 小林立・五十嵐あぐりの新作情報をネタバレ無しでみたいのでしばらくネットを絶つ。
 『阿知賀編』のようにどこかの高校か選手を主人公に据えた番外編でも良いけれど、『うしおととら』の外伝みたいに様々な年代・キャラクターの活躍をオムニバス形式で書く形式でも嬉しいな。『咲-Saki-』はもっと活躍が見たい、おいしいキャラが多すぎるんだよなぁ。
 『咲-Saki-』の主要構成要素のうち「美少女」という側面に注目したのが『咲日和』なわけだが、「伝奇」要素に主眼を置いた伝奇作品というのもとても面白そうである。最近のりつべがやっていることは名だたる名作伝奇作品に肉薄していると思う。『アカイイト』時代からの知り合いであるDG-Lawさんも同じ要素でニヤニヤしていた。『咲-Saki-』から伝奇ゲーに参入する人はもっと増えてもいい。
 今までのところ『咲-Saki-』のスピンオフは打率10割という驚異の数字をたたき出しているので、今回の新作も否が応でも期待が高まるぜ。

高天原 - Wikipedia 高天原 - Wikipedia

高天原(たかあまはら、たかのあまはら、たかまのはら、たかまがはら)は『古事記』の日本神話と祝詞に於ける天津神の住まう場所である。 地上の人間が住む世界である葦原中国や、地中にあるとされる根の国・黄泉に対し、天上界にあったとされるが、古くから神話を現実的に解釈しようという要求から、大和、九州、北陸、富士山等実在の場所であったとの説もとなえられた。


 天橋立と混同して「あまのたかはら」とずっと読んでいた。

「スティーヴン・キングだけど何か質問ある?」「何でも質問を受け付けるよ」:ツンダオワタ情報 「スティーヴン・キングだけど何か質問ある?」「何でも質問を受け付けるよ」:ツンダオワタ情報
 おっさん何してはるの。『リーシーの物語』が最高傑作……愛妻家らしい意見だがや。

【ポケモンXY】新ポケリークキタ――(゚∀゚)――!?日本語名はヒトツキ?:ポケまと!~ポケモンまとめ@2ch~ 【ポケモンXY】新ポケリークキタ――(゚∀゚)――!?日本語名はヒトツキ?:ポケまと!~ポケモンまとめ@2ch~
 優秀な耐性で登場が待たれていたはがね・ゴーストがついに来たか。とくせいはノーガード、さすがにもらいびやふゆうはないか。ノーガードを活かせるようなわざがゴーストにあったかね。

進撃の巨人とマブラヴってどのくらい似てるの? : 進撃の巨人ちゃんねる 進撃の巨人とマブラヴってどのくらい似てるの? : 進撃の巨人ちゃんねる
 人間が生物の頂点から転落し、絶望的な闘いを挑むという構図は同じ。ここから微妙にネタバレだが、人間を捕食するのがエネルギー摂取のためではない(消化していない)という点も共通している。それとループもしてそう。

Togetter - 「桜井政博氏、初代『星のカービィ』での任天堂に対する思い出」 Togetter - 「桜井政博氏、初代『星のカービィ』での任天堂に対する思い出」
 むむむむむ……。任天堂の一番の貢献はタイトルを「ティンクル・ポポ」から「星のカービィ」に変えたことだと思う。名前の与えるインパクトは人が思っているよりずっと大きい。


 思えば高遠原中学はもの凄くそれらしいネーミングである。


 予約してしまったのでPSPを買いに行かなければ。他にめぼしいものもないので『のーふぇいと!』もやろうか。

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2013年07月13日

岡橋初瀬を再評価する 阿知賀編に見る友人関係のもどかしさ

 今回語るのは晩成高校一年生の岡崎初瀬についてです。初瀬は主人公校のメンバーでもなく、ライバル校のレギュラーでもなく、闘牌描写すら全くない、いわゆる脇役の一人なのですが、彼女が劇中で果たしている役割は意外なほど大きいと思います。主に友人である新子憧のバックグラウンドを補強する存在として。

 初瀬が初登場するのは『阿知賀編』第三局「接触」です。しずと憧は特打ちの帰り道(アニメだと休憩時間)にコンビニに立ち寄りますが、そこで晩成高校の制服を着た二人組を見かけます。そのうちの一人が阿太峯中で一緒に麻雀をしていた初瀬であることに気付いた憧は「おっひっさしぶりー! げんきー?」と純粋に旧友との思わぬ再会を喜ぶ調子で話しかけます。しかし、フランクなノリの憧とは対照的に、初瀬は最初「おまえ…なんで…」と言葉に詰まり、直後に「なんで晩成に来なかったんだよ!」と声を荒げてしまいます。憧も思わず「あら…」「いやぁ…」と面食らうくらいの剣幕です。その後の「あそこ今麻雀部あるの? ここ数年エントリーすら見てないよ!」(やる気あるのかよ!)「まさか晩成だとレギュラー入るのが難しいからって…」(まさか逃げたのかよ……)と汗をかきながら言う様子からも、憧が自分と同じ晩成ではなく阿知賀に行ったことに動揺して荒れているのが見て取れます。
 このシーンにおける初瀬の反応から何が分かるかというと、彼女と憧がよい友人関係もといライバル関係にあったということです。私もこの年(26)になってしみじみ思うのですが、自分のために本気になって怒ってくれる人がいるのはとても素晴らしいことです。その怒りの矛先が他者であっても、自分自身であっても。怒るという行為は恐ろしくエネルギーを消耗します。人間、自分にとってどうでもよい人や物に対しては怒ったりしません。基本的に無関心です。もし初瀬にとって憧との付き合いが上辺だけのものだったら、ここでの反応は「ふ~ん、まぁ、収まるところに収まってよかったんじゃない?」という程度だったと思います。初瀬にとって二人で切磋琢磨した時間が本物だったからこそ、あの様に感情を露わにしてしまったのでしょう。

 「人を知りたければその友人を見よ」という言葉があるように、友人はその人のパーソナリティやコミュニティにおける役割を映す鏡です。初瀬のただ事ではない怒りと動揺からは、憧が阿太中でも良好な人間関係を築いて確固とした居場所を持っていたことが分かります。このことは『阿知賀編』3巻収録の番外編でもはっきりと描写されていますね。部室で初瀬たちと歓談する憧の表情は実に生き生きとしています。このシーンにおける憧の打ち解けた様子の笑顔と、それを見て乗り込む気勢をそがれた和たちの表情の対比は見ていて胸が詰まります。人生経験豊富なアラフォーあぐり先生の面目躍如といったところでしょう。

 それにしても、憧の対人スキルは射程距離が広いですね。彼女は阿知賀こども麻雀教室でも玄と同じくらいの人気者でした。年下の子どもたちに「アコちゃー」とあだ名で呼ばれて引っ付かれてましたし、今でもテレビに映ると応援団がちょっとしたお祭りムードになります。そして大人しい子の多い阿知賀女子では珍しく、ライバル校のメンバーにも果敢に絡んでいきます。特に全国でも十指に入るくらいの実力者であるセーラとタメっぽくやり合い、成績でも食い下がっているのは驚嘆に値します。その実、試合前に震えていて宥姉からパワーを分けてもらってるのもギャップでかわいいですが(ぼそっ)。

 憧の初瀬とのやり取りや、随所で垣間見えるコミュニケーション力の高さから分かることがあります。憧が阿知賀へ戻ってきたのは、決して新天地の阿太中で居場所が作れなかったからではありません。人恋しさで感傷に流されたからでも、麻雀の優先順位が下がったからでもありません。彼女は前向きに、全力で前傾で、しずたちと麻雀をより「楽しむ」ために阿知賀女子へと参戦したのです。こういった彼女の目的意識の高さは、仲間と別れて麻雀が盛んな阿太中に進学したときから一貫していると思います。

 初瀬と憧の関係については、動画のコメントなどで「本当に仲がよかったなら連絡して進学先を教えてもらえよ……」という意見も見かけました。どうでしょうか、私は親友でライバルだと思っている相手ならなおさら簡単に連絡できないじゃあないかと思います。友人関係にはパワーバランスがありますよね。自分が同等だと思っている相手だからこそ「あいつが連絡してくれないのになんで私から聞かないといけないんだ! あいつからするのが筋だろう!」とつい意地になってしまう。新しい環境に慣れるのに手一杯で連絡がおっくうになり、後ろめたさで連絡が取りづらくなる。間が開いてしまうとさらに気後れしてしまう。こんな負の連鎖が続いて、いつの間にか疎遠になってしまう。こんなもどかしい経験は誰しもあるのではないでしょうか。私も記事を書きながら悶えております。そういえば、しずもテレビで和がインターミドルチャンピオンになるのを見たときに「いや…プライドか何かがそれを許さない」と連絡するのをためらっていましたね。その和も転校した後にしずたちへ手紙を書こうとして、どうにも筆が進まない描写がありました。人の付き合いは儚く、時間は残酷です。どれだけ仲が良くても、同じ空間とアクティビティを共有しなくなった人間とは段々と繋がりが薄れてしまいます。仲違いをしたわけでもない。誰が悪いわけでもない。なのに「何となく」でそうなってしまう。酷なようですが、それが真理なのです。
 だからこそ、たとえチームが分かれていも、ポジションがうまく噛み合わなくても、友人と再び同じ場所に集い、全国の頂点という共通の目標に向かって戦うことの出来るインターハイは、彼女たちにとって夢のような舞台なのでしょう。そこでは気後れももどかしさもありません。変な意地も必要ありません。あの場所においては、一心不乱に、あらん限りの力で戦うことのみが友情の証明になるのです。『阿知賀編』の不器用で口べたな少女たちにとって、遠慮を取っ払って友人と「遊ぶ」ことの出来るインターハイは、まさに「お祭り」なのだと思います。
 『阿知賀編』は友情の素晴らしさを説く一方で、友人関係の機微や難しさももの凄くリアルに描いていますよね。我が身を振り返って、色々と思うところがあったのは私だけではないでしょう。だからりつべ学生時代ぼっち説には異を唱えたいですね(?)。

 初瀬は阿知賀と晩成の試合前に、我らが王者、小走先輩に対して猛烈なエールを送っています。そらもう口角泡を飛ばす勢いで。ここには「憧のチームなんか負かしちゃってください!」という恨みがましいニュアンスが多少なりともあるのではないかと思います。人間なのだから、独占欲や嫉妬めいた感情も持ち合わせている方が自然です。しかし、いざ阿知賀が晩成を下して、そのままの勢いで奈良県大会を制すると、遺恨めいたものを残さずに快く見送りに来てくれる。その後も憧の実家にお邪魔してテレビの前で応援してくれる(望さんと仲良くなる下心もありそうですが)。そこが初瀬の良いところですよね。あれは憧が県予選で見せた打ち筋から、彼女のひたむきさは中学時代から全くかわっていないこと、彼女が勝負から逃げて阿知賀に行ったのではないことが伝わってきたから、素直に応援できるようになったのだと思います。全国への見送りの時に、憧の手を触ってマメを確認しているのがミソですよ。
 初瀬は全国の舞台で戦うことこそ叶いませんでした。しかし、かつての相棒である憧に思いを託し、真摯に応援することで、彼女もあの「お祭り」へ参加しているのでしょう。

 岡橋初瀬は単体でも面白いキャラですし(憧の腕を取る仕草や、子どもたちに混じってちゃっかり実家にいるところが色々とあやしい)、この人を通して憧の人となりや目的意識がよりはっきりと見えてくると思います。筋金入りの原作厨である私はアニメ『阿知賀編』に対して色々言いたいことがあるのですが、初瀬という良キャラを全国大会出陣の前に回収した点だけで賞賛されて然るべきだと思っています(原作では県予選の応援席でメガホンを落としてから、全国大会準決勝中堅戦のオーラスまで出て来ません)。

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穏憧と魔物の数字(100速の穏、高校100年生の淡、100巡先を視る怜)について真面目に語る

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2013年07月13日

今さらtwitter

https://twitter.com/toppoitoppoi
 ほんとうに今さらですが、取るだけ取って放置していたtwitterアカウントにはてなブックマークを連動させてみました。よかったらフォローしてやってください。記事にするまでもないぼやきやステマを垂れ流す予定です。
 まだ使い方がよくわかっていません。
 議論はしません。

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2013年07月09日

咲-Saki- 考察・解説・レビューまとめを更新(Ver.0.5a)

 咲-Saki- 阿知賀編 考察・解説・レビューまとめを更新しました。今回追加したのは以下の記事です。最近は良記事が多すぎて更新が追いつきません。

咲-Saki-色のクオリア――能力者は量子雀牌の夢を見るか? - Danas je lep dan.
玄の「ドラを切れない」という制約はどれほど不利なものなのか?[玄の1局あたりの平均収支は何点か?] [ 麻雀漫画まとめ ]
小走先輩の名前について - 私的素敵ジャンク
咲本編と阿知賀編における主人公の立ち位置の違い―またはストパンとガルパンの違い― - レスター伯の限界
咲-saki-の能力は物理的にどのように作用しているのか? [能力者の放電は電磁パルス?] [ 麻雀漫画まとめ ]
龍門淵透華と「治水」と龍神様 - 私的素敵ジャンク
咲-saki- 阿知賀編 16話 [軌跡] 竜華の真の実力が開放される。その名も「無極点竜華」 [ 麻雀漫画まとめ ]
麻雀雑記あれこれ : 【考察】たとえ宇宙が滅んでも和はオカルトを信じない!!
【咲-Saki-】宮永咲の「嶺に咲く花(仮)」は能力バトル漫画の主人公にふさわしい能力だ とっぽい。
咲-Saki-は現実の西暦何年の出来事?:咲グラフ

 特にSF関連記事が熱かったですね。能力者達たちが雌雄を決する卓で、伏せられた牌が確定するのはどのタイミングなのか? プレイヤーに観測された瞬間なのか? 予め定められているのか? といった議論は次回の記事群でも引き継がれております。
 
 まとめのレイアウトを変更しようと四苦八苦しております。まだ記事が探しづらくて申し訳ないです。

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2013年07月03日

スティーヴン・キングの「筆力」とは

ひつ‐りょく 【筆力】

筆の勢い。筆勢。また、文章を表現する力。

筆力 とは - コトバンク


 最近はもっぱら『咲-Saki-』関連記事ばかり更新していたので(記事が伸びるのが楽しくてなぁ……)、ものっそい久しぶりにスティーヴン・キングについて書いてみようと思う。私はKey・麻枝准作品や『咲-Saki-』と同じくらいキングの作品が好きなので、どうにかうちのビューワーにステマをして競技人口を増やそうと思っているのだが、なかなかうまくいかない。さて、今回のテーマはキングの「筆力」についてだ。ちまたではよく「キングの筆力は凄まじい」「キングの筆力はずば抜けている」「ジャンルや洋の東西を問わずキングフォロワーはいくらでもいるが、あの筆力には到底追いついていない」というような言葉を耳にする。筆力……筆の勢い、筆勢ねぇ。私はというと、以下に挙げるような文章にキングの化け物じみたパワーを感じるのだが、他のナンバーワンのファンの方々はどうなのだろうか。

 前にもおれがいったとおりで、アンディーは見えないコートのように自由をはおっていたし、囚人的な精神状態におちいらなかった。やつの目は、けっしてあんなどんよりした目つきにならなかった。一日がおわって、みんながまた果てしない夜を迎えにめいめいの監房へもどるときも、けっしてあんな歩き方――あの猫背を引きずるような足どり――にならなかった。アンディーは胸を張り、足どりはいつも軽やかで、うまい手作りの夕食と、愛妻の待っている家へ帰るようだった。味も素っ気もないびしょびしょに煮くずれた野菜と、ごろんとしたマッシュポテトと、たいていの囚人が謎の肉という、あの脂っぽくすじの多い一切れか二切れの肉のかけらのところへ……そして、壁に貼ったラクエル・ウェルチのポスターのところへ帰るようには見えなかった。
It goes back to what I said about Andy wearing his freedom like an invisible coat, about how he never really developed a prison mentality. His eyes never got that dull look. He never developed the walk that men get when the day is over and they are going back to their cells for another endless night - that flat-footed, hump-shouldered walk. Andy walked with his shoulders squared and his step was always light, as if he was heading home to a good home-cooked meal and a good woman instead of to a tasteless mess of soggy vegetables, lumpy mashed potato, and a slice or two of that fatty, gristly stuff most of the cons called mystery meat ... that, and a picture of Raquel Welch on the wall.

(『刑務所のリタ・ヘイワース(Rita Hayworth and Shawshank Redemption)』)


 それがようやく私を得心させた。この子は死んでいる。病気でもなく、眠っているのでもない。この子はもう二度と、朝起きることもないし、リンゴを食べすぎて腹をくだすこともないし、毒ヅタをつかむこともなしし、むずかしい数学のテストの時間に、タイコンデローガ・ナンバー2の先端についた消しゴムを、すり減らすこともない。この子は死んでいるのだ。死んでしまったのだ。この子は友達と泉の水をびんに詰めに行くこともできないし、ズックの袋を肩に、溶けだした雪から顔をのぞかせた、返却代がもらえる空きびんを回収に行くこともできない。今年の十一月一日の午前二時に目をさまして、バスルームに駆け込み、ハロウィーンの安っぽいキャンディを大量に吐くこともできない。教室で女の子の三つ編みを引っ張ることもできない。誰かの鼻を殴って血まみれにしたり、または、血まみれにされたりすることもできない。この子は、なにひとつ、できないし、しないし、しようともしないし、なにもせずにいることもないし、しなければならないことも、するはずのことも、できるはずのことも、しないのだ。ターミナルが“否(いな)”と告げている装置の側にいるのだ。一セント入れなければならないヒューズ。鉛筆削り機のけずりかすや、朝食時のオレンジの皮の匂いのする、教室の机の横のゴミ箱。窓が破れ、地所に〈進入禁止〉の札が立ち、屋根裏部屋はコウモリの巣となり、地下室はネズミでいっぱいの、町はずれの幽霊屋敷。ミスター、マダム、若き紳士淑女諸君、この子は死んでしまった。わたしは一日中それをそう言いつづけていられるし、地面の上の彼の素足と、茂みに引っかかった彼の汚れたケッズの靴との間の距離については、正確なことを言いたくない。その距離は三十インチ以上、十の百乗光年だ。彼は自分の靴と離れ、すべての希望をあきらめたかなたにいる。彼は死んだ。
That finally rammed it all the way home for me. The kid was dead. The kid wasn't sick, the kid wasn't sleeping. The kid wasn't going to get up in the morning anymore or get the runs from eating too many apples or catch poison ivy or wear out the eraser on the end of his Ticonderoga No 2 during a hard math test The kid was dead; stone dead. The kid was never going to go out bottling with his friends in the spring, gunnysack over his shoulder to pick up the returnables the retreating snow uncovered The kid wasn't going to wake up at two o'clock a.m. on the morning of 1 November this year, run to the bathroom, and vomit up a big glurt of cheap Halloween candy. The kid wasn't going to pull a single girl's braid in home room. The kid wasn't going to give a bloody nose, or get one. The kid was can't, don't, won't, never, shouldn't, wouldn't, couldn't. He was the side of the battery where the terminal says NEG. The fuse you have to put a penny in. The wastebasket by the teacher's desk, which always smells of wood-shavings from the sharpener and dead orange-peels from lunch. The haunted house outside of town where the windows are crashed out, the NO TRESPASSING signs whipped away across the fields, the attic full of bats, the cellar full of worms. The kid was dead, mister, ma'am, young sir, little miss. I could go on all day and never get it right about the distance between his bare feet on the ground and his dirty Keds hanging in the bushes. It was thirty-plus inches, it was a googol of light-years. The kid was disconnected from his Keds beyond all hope of reconciliation. He was dead.

(『スタンド・バイ・ミー(The Body)』)


 クリスは笑いながら歩み去った。わたしのように傷付いていないというように、わたしのように足に豆ができているわけではないというように、わたしのように蚊や、スナノミや、ブヨに悩んだわけではないというように、足取りも軽く、優美な歩きかただった。まるでこの世に悩みは一つもないと言わんばかりの、屋内水道設備もなく、破れた窓にはビニールが貼ってあり、家の前ではたぶん不良の兄貴が待っているにちがいない、たった三部屋の家(小屋、という方が真実に近い)に帰るのではなく、豪邸に帰るところだと言わんばかりのくったくのなさだった。
He walked off, still laughing, moving easily and gracefully, as though he didn't hurt like me and have blisters like me and like he wasn't lumped and bumped with mosquito and chigger and blackfly bites like me. As if he didn't have a care in the world, as if he was going to some real boss place instead of just home to a three-room house (shack would have been closer to the truth) with no indoor plumbing and broken windows covered with plastic and a brother who was probably laying for him in the front yard.

(『スタンド・バイ・ミー(The Body)』)


 彼はビー玉で喉を詰まらせてやろうと待ちかまえている。クリーニング屋からもどってきた洗濯物のビニール袋で、窒息させてやろうと待ちかまえている。電気というてっとりばやく致死的なブギー……〈"最寄りのスイッチ板"もしくは"現在使用されていない電灯のソケット"等でいつでもお手に入ります〉……で、黒焦げにしてやろうと待ちかまえている。二十五セントのピーナッツの袋、気管に吸い込まれたステーキの一片、この次に封を切る煙草の箱、どこにでも死がひそんでいる。彼はいつでも身近にいる。人間の世界と不死の世界の間のチェックポイントを、つねにモニターしている。不潔な注射針、毒虫、切れて垂れ下がった電線、山火事。急に向きを変えたローラースケートが、交通の激しい交差点に愚かな子供をとびださせる。シャワーを浴びようと風呂に入ればそこにもオルが待ちかまえている…〈シャワーメイトと楽しいシャワー〉。飛行機に乗れば、オルが搭乗券を受け取る。彼はあなたの飲む水のなかにいるし、あなたの食べる食べ物の中にもいる。一人おっちで、こわくなったとき、あなたは闇にむかって叫ぶ。「そこにいるのはだれだ?」すると、返ってくるのは彼の返事なのだ。こわがらなくてもいいよ。わしさ、わしがいるだけだ。よう、気分はどうだ? あんた、腸癌にかかっているぜ。やれやれ、悪運だね。ごめんソーリー、ひげソーリー! 敗血症! 白血病! 白血病! アテローム性動脈硬化症! 冠状動脈血栓症! 脳炎! 骨髄炎! ヤッホー、やったろじゃないか! 戸口にナイフを持ったペイ患。真夜中に電話。ノース・カロライナのどこかの高速出口では、バッテリー液で血が煮える。どかっと渡される錠剤、これを片っ端からむしゃむしゃやってくれ。窒息して仮死状態になったあとの、爪のあの奇妙な青っぽい色合い――生存のための最後の厳しい戦いのなかで、残った酸素を脳髄がすっかり使ってしまうのさ。爪の下のそれらちっぽけな細胞のなかのものまでも。いよう、みんな、わしの名は《オルのらいまおう》、なんなら"オル"だけでもいいぜ。なんせ、もう今じゃ古なじみの親友同士だから。なに、ちょっと立ち寄っただけさ、あんたにすてきな鬱血性心臓麻痺か、脳血栓か、なにかちょっとした贈り物をあげるために。いや、長居はできないんだ、ある女性と異常分娩のことで会わなくちゃならんし、オマハでは、煙を吸わせてやるというささやかな用事も待ってるんでね。
 われわれはパトロールをつづける……息子とおれは……なぜなら、いきることの要諦は戦争でもセックスでもなく、もっぱら《オルのらいまおう》を相手にまわしての、その気高い、絶望的な、うんざりするような戦いにのみあるのだから。

(『ペット・セマタリー』)


 私が「キング節」としてイメージしているのがこのような文章だ。
 スティーヴン・キングはデビューから一貫して、高尚な批評家から「文学的価値がなく」「品のない」「大衆作家」と苦言を呈されてきた。キングその人ですら『恐怖の四季』の前書きなどで、自分の作品を「マクドナルドのビッグマックとフライドポテトの大と同じ文学的価値」と卑下している。なるほど、如何に余計なことを書かずして読み手に情景や情感をかき立てるかが文学のお作法だとしたら、キングの文体はあまりにもごてごてしていて、写実的すぎて、それとはかけ離れている。脳炎! 骨髄炎! バビロンの淫売婦! すすぎ洗いだ! ポール、すすぎ洗いの時間だよ! こういった表現も社会通年上一般的に見て、純文学と称される作品とはあまり噛み合わない類のものだ。それにこのオッさんはどんだけ固有名詞が好きなんだ。
 上掲した『スタンド・バイ・ミー』のシークエンスを文学的見地から添削するとこうなるのだろうか。

 クリスは笑いながら歩み去った。わたしのように傷付いていないというように、わたしのように足に豆ができているわけではないというように、わたしのように蚊や、スナノミや、ブヨに悩んだわけではないというように、足取りも軽く、優美な歩きかただった。まるでこの世に悩みは一つもないと言わんばかりの、屋内水道設備もなく、破れた窓にはビニールが貼ってあり、家の前ではたぶん不良の兄貴が待っているにちがいない、たった三部屋の家(小屋、という方が真実に近い)に帰るのではなく、豪邸に帰るところだと言わんばかりのくったくのなさだった。


 ふんふむ、冒頭の文章以外はまるっと削っても支障はないかもしれない。「笑いながら」「去った」という表現だけでクリスの颯爽としてくったくがない様子は伝わってくる。後に続く描写は見方によっては「過剰」「蛇足」と言える。四角四面に文学的価値を考えれば、ばっさりと削除してしまうのが正解なのだろう。しかし、私はキング節のこういった余りある「過剰さ」が素晴らしいと思うのだ。私はまず、まるでその人の生活を子細に観察してきたような恐ろしい情景喚起力に圧倒される。加えて、読み手の五感に訴えかけてくる描写力、ガジェット選びの繊細なセンスに惹き付けられる。茂みに引っかかったケッズの空虚なさまや、スナノミやブヨの噛み痕の痛がゆさや、びしょびしょに煮くずれた野菜のからえずきしそうなまずさや、教室のごみ箱から漂うオレンジの皮の、不快であると同時に甘ったるい匂いがまざまざと感じられるではないか。そして、この畳みかけるような独特のリズム感がやみつきになる。「言葉の奔流」という言葉はこんな文章のために用意されているのだろう。こういった、批評家の評価も文学的価値も何のその、てめぇの書きたいことを思いのまま書き殴る「胆力」が、キングその人と世にあふれるキング・チルドレンの一線を画するところだと思う。
 また、文章に書かれている以上のことが伝わってくる、語り手の秘めた感情が伝わってくると言う点に限れば、キングの小説は文学の王道を貫いていると言えずともない。ゴーディがクリスの惨状、小旅行を終えてぼろぼろに傷ついた身体の様子から掃き溜めのような家の状態までを淡々と語りつづける様子からは、酸鼻を極める状況でもクールに振る舞うことのできる彼のタフさに対するあこがれが読み取れないだろうか。同様に、レッドが独房に戻るアンディーを待ち受けるみじめでみすぼらしい物事をつらつらと書き連ねる様子からは、そんな状況でも自分自信を見失わない彼の資質に対する畏敬の念、賞賛の念が伝わってこないだろうか。行き着くところまで行ったルイスが、オルのらいまおうの所業……思いつく限りの事故死や病死について陽気にまくし立てる様子から、彼と息子を取り巻く「死」の影に対する病的な恐怖がひしひしと感じられないだろうか。
 そんなこんなで、キングの余りある描写力、彼の言うところの「文学的象皮病」は誇るべき資質であること、彼の文体から作品全体を非文学的だと決めつけるのは早計であること、この二点を私は訴えつづけていくつもりである。

刑務所のリタ・ヘイワース 感想・レビュー スティーヴン・キング
 長ったらしい『刑務所のリタ・ヘイワース』のレビューだが、後半部でこの作品における文学的要素について触れているのでこちらもどうぞ。

ゴールデンボーイ―恐怖の四季 春夏編 (新潮文庫)
スティーヴン キング Stephen King
410219312X
スタンド・バイ・ミー―恐怖の四季 秋冬編 (新潮文庫)
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ペット・セマタリー〈上〉 (文春文庫)
スティーヴン キング Stephen King
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