2007年09月27日

Keyゲーと聖書2 ほら、はぁー…ってして

「ある人がエルサレムからエリコへ下っていく途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じようにレビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
 ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、 近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。「この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います」
 さて、あなたはこの3人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」
 律法の専門家は言った。「その人を助けた人です」
 そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい」

(『ルカによる福音書』よきサマリア人)


 イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」
 イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ」
 すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。
 イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」
 その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」
  弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」

(『マルコによる福音書』金持ちの男)


「天の国は次のようにたとえられる。
 ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。 それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。
 夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。
 最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。 『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは』
 主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか』
 このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」

(『マタイによる福音書』ぶどう園の労働者)


 徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。そこで、イエスは次のたとえを話された。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」

(『ルカによる福音書』見失った羊のたとえ)


 イエスの説教とたとえ話のうちいくつかは、彼の説く、人類がいつか辿りつくべき境地「天の国」のヴィジョンを示している。天の国は一言で言えば、理屈に囚われない助け合いの世界のことだ。イエスの話を纏めると、天の国へと辿りつく方法は概ね以下の通りである。
①けちな財産をうっちゃって物欲から逃れる。
②執着、嫉妬などのやくざな感情を捨て、世俗のしがらみから逃れる。
③相互扶助の共同体思想を体得し、先行きの不安な精神の世界を目指す。

 現実問題、イエスの理想を完全に体現するのは困難を極めるだろう。私利私欲、損得勘定を捨てることももちろん難しい。しかし、それ以上に、最後にぶどう園に来て働き出した者が朝から働いた者と同じ対価を受け取る、九十九匹の羊を野原に残して一匹の迷い出た羊を探し出す、放蕩の限りを尽くしていた息子を喜び迎える、という理屈はことさら受け入れがたいと思う。現代社会を生き、「最大多数の幸せが正義」「善人は報われる」「努力は報われる」ことを当然だと思っている我々は、どうしても「一匹対九十九匹」という数字や、感情論に囚われてしまう。
 しかしながら、天の国に到達することの難しさについては、イエスその人が「人間にできることではない」「らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」とぶっちゃけている。イエスが金持ちの男に向ける、達観したような慈しみの表情は、彼が財産を捨てられないのを理解しているからのものだと、偉い人が言っていた。イエスは不正な管理人や放蕩息子のような弱い人間が、物欲の世界を去りがたくて苦しみ、それでもどうにかこうにか精神の世界を目指そうとする姿を、たまらなく愛しているんだそうだ。
 さてKeyゲーの話である。Key、麻枝准製作のビジュアルノベルは、どれも世界観を同じくしていないが、キャラクターが目指すべき境地のヴィジョンは、Tactics時代から連綿と受け継がれていると思う。聖書における理想の境地が「天の国」なら、こちらは「輝く季節」とでも呼ぼうか。Keyのシナリオ、特に麻枝准担当のパートは、キャラクターが意識しているかいないかにかかわらず、概ね以下の通過儀礼を経て、輝く季節へと辿り着く話である。
①惰性や予定調和による形骸化した関係から分断される。
②痛みを覚え、相手を独立した他者として認める。
③その上でもう一度絆を求め、関係を作り、自我を確立する。

 Keyっぽい、keyらしいという言葉はよく目にするが、私にとっては上記のプロットを踏襲しているのがKeyらしいシナリオだ。だーまえの担当シナリオ以外にも、樫田レオの西園美魚シナリオなどは、読んでいてとてもkeyらしいと思った。皆さんにとっての「Keyらしい」はどんなものだろうか。
 次回へ続く。

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tags: 考察 聖書 

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