2007年10月09日

「炎のランナー」はどうにも納得できん

 イエスの説教でも、「迷い出た羊の例え」とか「見失った羊のたとえ」とか「放蕩息子のたとえ」ろか「ぶどう園の労働者」とか「不正な管理人のたとえ」なんかは、できない人はこれっぽっちも理解、共感できないと思うけど、この説教はおよそ誰でも「う~む、一理ある」と思う真理じゃあないかな。

 すると、片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」と尋ねた。
 そこで、イエスは言われた。「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。 人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている」
 そしてその人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、もう一方の手のように元どおり良くなった。
 ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。

 ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。ファリサイ派の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言った。
 イエスは言われた。「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」
 そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある」

(安息日の主)

 安息日をはじめとする神の戒律は、人々がそれを遵守するときに「私は神(イエス)と共にあるのだ」と意識できるように定められている。神の存在を感じるためにある戒律が妨げになって、御心である善行ができないようでは本末転倒ではないか……とイエスは言いたいんだろう。これ、現代日本人にはことさら耳に痛い話じゃあないかな。「憲法は、人のために定められた。人が憲法のためにあるのではない」とか改変すれば、まさにタイムリーな話題だね。「ギャルゲーは、人のために作られた。人がギャルゲーのためにあるのではない」……とか下らんことを言って今日の締め。

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