2006年05月03日

死の舞踏/スティーヴン・キング

 死ぬほど人を怖がらせるための道具として想像力については一言言っておきたい。(中略)何よりも恐ろしいものは閉じた扉の向こうにあるものだ、とノーランは言う。例えば、人気のない古い家の中で扉に近づくと、ひっかくような音がする。観客は、扉に歩み寄る主人公の男性もしくは女性(たいていは女性)と一緒になって息を詰めている。主人公が思いきって扉を開けると、身の丈十フィートの化け物がいる。観客は悲鳴を上げる。だが、その悲鳴にはどこか安心したような響きがある「10フィートの化け物はけっこう怖いな。でも、これくらいなら何とかなるぞ。100フィートだったらヤバいけど」と思うからだ。
 (中略)扉の向こうにひそむものや、階段の上で待ち受けるものは、扉や階段そのものの怖さには絶対に敵わない。ここにパラドックスが生じる。ホラーという芸術形態はたいてい失望しか与えないのだ。正体のわからないものでいつまでも怖がらせておくことはできるが、いずれはポーカーのように手の内を見せなくてはならない。それが身の丈10フィートではなく100フィートの化け物だったとしても、観客は安堵の溜息をついて(というか、安堵の悲鳴をあげて)、「100フィートの化け物はけっこう怖いな。でも、これくらいなら何とかなるぞ。1000フィートだったらヤバいけど」と思うからだ。


 この手法、扉を変形させてふくらませはしても絶対に開けない、を私が支持しない理由は、これがゲームに勝つためではなく引き分けに持ち込むための方便にしか思えないからである。何と言っても一パーセントは勝利の可能性が残されている(かもしれない)のだし、不信の中断という概念もある。だからこそ私は、高まる期待に応えて思い切りよく扉を引き開ける。それで観客が恐怖ではなく笑いの悲鳴を上げるなら、また振り出しに戻ってもう一度やり直すまでだ。


 私の小説はどれも勇気と倫理と友情とねばり強さについての話だ。ある時は愛、ある時は暴力、ある時は痛みや苦しみや喜びとともにそれらを語る。だが、差し出すメッセージはどれも一緒だ。


 私が本書で言おうとしているのは、ホラーは牙を生やしてビックリかつらをつけていても、実はピンストライプの三つ揃いを着たイリノイの共和党員と同じくらい保守的であるということだ。ホラーの目的は、タブーの国に足を踏み入れた人間がどんなに恐ろしい目に遭うかを見せて、普通であることのありがたみを再認識させるためにある。ホラーという枠組みの中には、ピューリタンの口元さえほころばせるような厳しい道徳模範が隠されている。


 私自身は、フィクションというものは何を置いてもストーリーが先に立つべきものだと昔から固く信じている。ストーリーこそがフィクションの性格を決定する。他の条件は全てーーテーマも、ムードも、語り口も、象徴も、文体もーー犠牲にしたって構わない。


「最善を望み、最悪を覚悟しなさい」


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(2004/04)
スティーヴン キング

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