2013年05月06日

『咲-Saki-』と『ジョジョの奇妙な冒険』 能力バトルとパーソナリティ

「なあ好奇心で聞くんだが……すこやん」

「君が出会った『能力』の中で……
 一番『弱い』能力って……どんなヤツだい?」」

ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ

「どんな者だろうと人にはそれぞれその個性にあった適材適所がある
 大将には大将の……次鋒には次鋒の……
 それが生きるという事だ
 能力者も同様『強い』『弱い』の概念はない」

「質問が悪かった……
 子供が遊びで話す『宮永照と天江衣はどっちが強い?』
 そのレベルでいいよ」

「『すばらっ』と名付けた能力が最も『弱い』 でも人は予想を超えてくる」

(『サキの奇妙な麻雀』)


 予告していた通り、今回の記事では『ジョジョの奇妙な冒険』を今更ながら再評価しつつ、『咲-Saki-』『咲-Saki-阿知賀編 episode of side-A』 の能力バトル要素について語っていこう。個別記事で熱烈に語ったことはなかったが、私は『ジョジョ』の中堅信者である。何分連載を追い始めたのが『ストーンオーシャン』の途中からなのでナンバーワンのファンとは言えないが、中坊の頃から折に触れて読み返しつつ布教活動を続けているのでニワカは相手にならんよ。

静止した時の中を動けるのは たったひとりでなくてはならない…
思うに自動車という機械は便利なものだが
誰も彼もが乗るから道路が混雑してしまう
止まった時の中はひとり…このDIOだけだ

(『ジョジョの奇妙な冒険』DIO)


「わたしは常に『心の平穏』を願って生きてる人間ということを説明しているのだよ…
 『勝ち負け』にこだわったり 頭をかかえるような『トラブル』とか
 夜もねむれないといった『敵』をつくらない…
 というのが わたしの社会に対する姿勢であり
 それが自分の幸福だということを知っている…
 もっとも 闘ったとしてもわたしは負けんがね」

「つまり 君はわたしの睡眠を妨げる『トラブル』であり 『敵』というわけさ
 誰かにしゃべられる前に…
 君を始末させてもらう」

(『ジョジョの奇妙な冒険』吉良吉影)


「どんな人間だろうと…一生のうちには「浮き沈み」があるものだ
 『成功したり』『失敗したり』……だが…
 未来という目の前に……ポッカリ開いた「落とし穴」を見つけ
 それに落ちる事がなければ人生は決して『沈む』事がない
 『絶頂』のままでいられる わたしは!……」

(『ジョジョの奇妙な冒険』ディアボロ)


「人といつ出会い…そして別れるか? 戦争がいつ起こり時代がいつ変わるのか?
 自分が誰を恋し、誰を憎むのか? 自分はいつ子供を産み、子はどんな成長をするのか?
 誰が犯罪を犯し、誰が発明や芸術を生むのか?
 頭脳や肉体ではなく精神がそれを体験して覚えて知っているのだ!」

「そしてそれこそ『幸福』であるッ!
 独りではなく全員が未来を『覚悟』できるからだッ!
 『覚悟した者』は『幸福』であるッ!」

「悪い出来事の未来も知る事は『絶望』とおもうだろうが、逆だッ!
 明日『死ぬ』とわかっていても『覚悟』があるから幸福なんだ!
 『覚悟』は『絶望』を吹き飛ばすからだッ!」

「人類はこれで変わるッ!
 これがわたしの求めたものッ!『メイド・イン・ヘブン』だッ!」

(『ジョジョの奇妙な冒険』プッチ神父)


 スタンドは本体の精神力が具現化されたものであり、スタンドパワーの源は精神のエネルギーである。だからなのか、能力に性格(花京院、丈助)、趣味嗜好(露伴、チョコラータ)、性癖(アレッシー、アナスイ)、トラウマ・コンプレックス、スタイル(ジョセフ、ホル・ホース)、生まれ(康一)、主義・思想など、本人の性質が色濃く反映されているものが少なくない。特に各部におけるボスのスタンドには顕著である。

 例えば、シリーズを通しての宿敵であるDIOのスタンド「ザ・ワールド」だ。このスタンドは基本的なスペック自体も最高峰だが(後年最強のスタンドと呼ばれる承太郎の「スタープラチナ」をパワー、スピード、精密動作性、射程距離の全てで上回る)、それが霞んでしまうほど時を止める能力が凶悪だ。止まった時の中を動けるのはDIOだけ(だった)なので、無防備な相手に一方的な攻撃を下すことができる。王の能力と呼ぶにふさわしい無欠さだ。お遊び無しで殺しに掛かられていたらジョースター一行は一瞬で全滅していただろう。もっとも、余裕ぶったところを打ち倒されるところまで含めて王なのだろう(これは『咲-Saki-』の衣などにも言えることだ)。この時を止める能力は、DIOの自分が王であることに対する絶対の自負、そして全人類・全世界を支配したい、自分一人だけが頂点に君臨したいという究極の上昇志向もといエゴイズムの賜なのではないだろうか。

 例えば、猟奇殺人犯でありながら普通のサラリーマンとして暮らす吉良吉影のスタンド「キラー・クイーン」だ。手に触れた物や人間を爆弾に変えて爆破することができる能力は、殺人の証拠を綺麗に消し去りたい、自分の正体を嗅ぎ回って「平穏な生活」を脅かす障害を粉微塵に吹き飛ばしたいという願望の発現なのだろう。また、その実行手段が爆弾という「平穏」にはほど物騒な形を取ったのは、吉良の平和主義の仮面に隠した暴力性の表れなのかもしれない。アバッキオはフーゴとそのスタンド「パープル・ヘイズ」を「『どう猛』! それは……『爆発するかのように襲い…そして消える時は嵐のように立ち去る』……まさにその性格を象徴したようなスタンドだな」と評しているが、この言葉はほぼそのまま吉良とキラー・クイーンにも当てはまると思う。

 例えば、巨大ギャング組織の謎に包まれたボス、ディアボロのスタンド「キング・クリムゾン」だ。この能力は時間を数秒間消し飛ばすことができる。消し飛んだ時間は「無かった」ことになり、後には結果だけが残る。本体のディアボロ以外は消し飛ぶ時を認識することができず、「ザ・ワールド」の時止めと同様、自分の時間の中で圧倒的に有利な攻撃を仕掛けることができる。また副次的な能力である「エピタフ」で数秒後の未来を見られるので、眼前の危機を察知して安全に回避することができる。この能力は落とし穴の無い「永遠の絶頂」を望み、自分にとって都合のよい「結果」だけを求めてきたディアボロの価値観が具現化したものと言えるだろう。また、帝王を自称して憚らない傲慢さと同居する、正体をひた隠して過去を徹底的に抹消する慎重さ、潔癖さのニュアンスも伺える。

 プッチ神父にしても、最初のスタンドである「ホワイトスネイク」は自らの行動で死を招いてしまったペルラの記憶をこの世に留めておきたいという強い願いが能力を決めたのだろうし、緑色の赤ちゃんの力を取り込んだ最終スタンド「メイド・イン・ヘブン(Stairway to Heaven)」はウェザーとペルラの事件で得た「人類は待ち受ける運命に対する覚悟をすることで幸福になれる」という独善的な啓示を遂行するための能力だろう。

 『ジョジョ』のスタンドバトルが能力バトルとして如何に優れているかは、語るに尽きぬものがある。まず、不可視の超能力(E.S.P)をヴィジュアル……スタンド像で可視化するという発想がなかなか出てこない。コロンブスの卵だ。スタンド像の半機械・半生物の造形も少年の心を鷲掴みにする。普段着の男二人が対峙している……双方から飛び出す異形のスタンドヴィジョン……激しいラッシュの応酬……。この日常と非日常が奇妙に融合した絵面が読者を惹き付けてやまない。また、スタンド使い同士の対決においては、単純にパワーに対してより強力なパワーで対抗するのでなく、能力の特質と機転・知略で、相手の能力をロジカルに打ち負かしている点も面白い。『ジョジョ』がインフレから解放された希有なバトル漫画と評価されているのはこれ故にだろう。しかし、私がスタンドバトルで最も評価しているのは、パワー比べや化かし合いの頭脳戦に加えて、さらにもう一次元上の「個」の闘い、「信念」「思想」の闘いの域にまで到達していることだ。言うなればキャラクターの生き様のぶつかり合いであり、だからこそあれほど熱くて「凄み」が感じられるのだろう。
 承太郎の「スタープラチナ」はDIOの「ザ・ワールド」と同様に時を止める、制止した時間を認識できる能力だが、その能力を得る過程が決定的に異なっている点に注目してほしい。杜王町の守護者である丈助の、エントロピーを凌駕して物や人を直すスタンド「クレイジー・ダイヤモンド」が、吉良の爆弾スタンド「キラー・クイーン」と真逆のコンセプトであることに注目してほしい。自らに都合のいい結果以外を消し飛ばすディアボロの「キング・クリムゾン」に対抗するのが、ジョルノの無機物や人に生命を与えるスタンド「ゴールド・エクスペリエンス」であることに注目してほしい。ジョルノが半ば組織に飼い殺されていたブチャラティや社会の爪弾き者だったミスタやアバッキオやナランチャに何をもたらしたのかを考えてほしい。人類に対して独善的な覚悟を迫る神父の「メイド・イン・ヘブン」に対抗するのが、徐倫の「糸」のスタンド「ストーン・フリー」だが、それが物質的な糸(紐、ワイヤー、ザイル、網……)のみを意味していたのかどうか考えてほしい。神父と最後に対峙してとどめを刺したのが、元々ジョースターの血統とは無縁だったちっぽけな小僧のエンポリオであることに注目してほしい。また、スタンドの概念が登場する前の1部と2部においても「思想の闘い」「生き様の闘い」というコンセプトは守られている。早く言えば、波紋編は肉親や師匠や盟友から、波紋の能力や誇りなど様々なものを受け継いで前進していくJOJOと、他者から生命力を略奪して生物の頂点を目指す究極生物たちの「生き様」の闘いなのである。
 そのサブテキストの練度において『ジョジョの奇妙な冒険』の次元にまで辿り着いている能力バトル作品は『ジョジョ』フォロワーのそのまたフォロワーが生まれている昨今でもほとんど見受けられない。
 

 さて、ここで『咲-Saki-』『咲-Saki-阿知賀編 episode of side-A』 に話題を移そう。私は『ジョジョ』の能力バトルを絶賛しているのと同様の理由で『咲-Saki-』の超能力麻雀を愛している。

一年生の時――

部室で 1年の間一人だった――

2年生の時 まこが来てくれて
二人でもう1年

今―――

ただ ありがたい―ー

(がんばらなきゃね…!!)

(『咲-Saki-』竹井久)


ありがとう

みんな ありがとう
この場所に連れてきてくれて…!!

(いろいろ待った甲斐があった…)

じゃあ…
ここでも待とうかしら

待つのは慣れっこなんだから…!!

(『咲-Saki-』竹井久)


「モモ! どこだ!」
「ここッす」
ビクッ

「さすがに決勝は手強いっすね
 消えるのに時間がかかりました」
「いけそうか?」
「はい」

「影のちょー薄い私を拾ってくれた
 先輩への恩返しっす」

「私のリーチはダマと同じ
 私は誰にも振り込まない
 リーチに当たり牌を打っても
 相手がフリテンになるだけ」

「私は存在しない」

「ここからは
 ステルスモモの独壇場っすよ!!」

(『咲-Saki-』東横桃子)


「母君がよく言っていた…」

「長期的自己実現で福楽は得られない
 幸せは刹那の中にあり
 この光…この風 この時を楽しめるのも幸せの形なのだと」

「それを共有したい心が愛や娯楽に向かう
 しかし麻雀ではそうはいかない」

「麻雀で4人が楽しみを共有できるとは限らない
 衣と打った相手は皆
 世界の終焉を見るような顔をする――…」

「衣はそれでまた
 独りぼっちになっちゃうんだ」

(『咲-Saki-』天江衣)


……

「やけん捨てゴマ的に先鋒にオーダーされとっとですか……
 花田が聞いたらマジへこむやろうなぁ…
 レギュラーに選ばれてすげー喜びよったし」
「そいけんうちは後ろの四人の火力で勝負すっとよ」


「………」

「聞いてしまった」

「うわぁショック~」

ぱっ

「なんってことはないですね!」

(嬉しいことです
 私には誰かから必要とされる力がある)

(それはエースになれる力じゃないけど)

(必要とされてる そんなすばらなことはない)

捨てゴマ まかされました!

(『咲-Saki- 阿知賀編』花田煌)


そうだった……

どうしても別れなきゃいけない人………

前に向かうために別れを選ぶ人…

見送る人

私はいつも待つ方だったけど

穏乃ちゃんや赤土先生
灼ちゃんや憧ちゃんは戻ってきてくれた

おねーちゃんとは 前よりもっと一緒に遊ぶようになった

和ちゃんは戻ってきてくれるかわからないけど
今一緒のお祭りに参加している

別れることはよくあることで
私は慣れてるはずだったんだ

今まで自分から別れを決めたことはなかったけど
前に向かうために

一旦お別れ

「リーチ…!!」

帰ってこなくても 私は待ってる

(『咲-Saki- 阿知賀編』松実玄)


 例えば、竹井久の「悪待ち」だ。この能力は彼女の人間性もとい人生の選択そのものだろう。部長は相応の実力があったにもかかわらず、(おそらく)家庭の事情で麻雀の名門校へ進学する道を閉ざされ、麻雀部の実態すらない清澄に行かざるを得なかった。並の人間ならここで世を拗ねるなり(手が届きかけていた物ほどそれが失われたときの落胆は大きくなる)、積みと判断して他の道を模索するなりするだろう。それでも彼女は腐らず、一人きりの部室で人の縁と機会を待ち続けた。分の悪い待ちを続けることを自らの意思で選んだのだ。その結果、翌年に麻雀喫茶の娘であるまこを引き当て、さらに翌々年には伸びしろのある能力者候補生(天照大神の一角のお墨付き)の優希、インターミドルチャンピオンの和、作中最強候補の魔物である咲の三人を引き入れて、インターハイへの切符を勝ち取ったのだから末恐ろしい。この偏屈な性質とジンクスに対する揺らぎのない自信は魔物勢に近いものを感じる(そういえば国広くんが部長のことを「衣に近い生き物なのか」と言っていたが)。

 例えば、東横桃子の「ステルスモモ」だ。モモの能力は生まれつき極端に影が薄い・存在感が無い性質を麻雀という場で活かす、という形を取っていて、オカルトが最初から発現している点で他のメンツとは少々趣が異なっている。だからだろうか、りつべもステルスに説得力を持たせるために県予選決勝のかなり早い段階から伏線を張っている。まず、副将戦が始まるまでの休憩時間は元より、対局が始まってもモモの活躍シーンまでは徹底的に彼女の顔を伏せていた。鶴賀の集合絵ですら極々小さい後ろ姿しか映っていない。控え室での会話でも極力名前を出していない。こうして読者の目を通して、存在感が極々薄いという設定にメタ的な真実味を持たせているわけだ。そしてモモが着く卓には、もう一人の主人公であり、見場が良くてマスコミの注目も集めている和と、龍門渕の実質的リーダーであり、極度の目立ちたがりでブロンドも輝かしく、おまけに和(のどっち)との因縁を匂わせている透華が配置されている。読者の目は自然とこの二人に向かい、特徴のない「鶴賀の副将」に対する注意は更に低下する。あの意味不明なエンジェルのどっちとアマゾネス透華のファンタジーバトルも、二人に注意を向けさせる演出だと思えば納得が行く。そして和と透華の手に汗握るデジタル対決も最高潮に達し、完全に読者の頭から「鶴賀の人」のことが消えているところに、モモがスッと姿を現していいところをかっさらっていくわけだ。読者の驚きは、まさにリーチに無警戒で振り込んだ透華の驚きである。準主役の和までダシに使う思い切った演出で、個人的にはとても買っている。

 例えば、天江衣の「一向聴地獄」だ。衣には麻雀を打っても自分以外の人間は楽しめない、相手を蹂躙して最後はひとりぼっちになるばかりだ、という圧倒的強者ゆえのコンプレックスがあった。言うなれば、衣の場を支配して相手全員を一向聴に留めて、自分だけが海底撈月で和了る能力は、彼女が打ってきた麻雀そのものの象徴なのである。
 しかし、単純に速攻の高火力を直撃させるだけでも十二分に強すぎる衣が、それ以上に反則的で、嗜虐的・露悪的な能力を発現させたのは何故だろうか。矛盾しているようだが、彼女があの完璧な支配を破るほどの実力者が現れること、「魔物」である自分を一切の言い訳もなく打ち負かして地に塗れさせること、そうして自らの孤独を終わらせてくれることを心のどこかで望んでいたからではないだろうか。悪人を演じるかのように挑発的な言動とプレイングを続ける衣に『幽遊白書』の戸愚呂弟や『バキ』のドリアンを思い浮かべた人は私の他にもいるだろうか。

 例えば、松実玄の「阿知賀のドラゴンロード」だ。玄の全てのドラが自分に集まる能力は、在りし日の母親からされた「ドラをもっと大事にしなさい」というアドバイスを忠実に守っていたらいつの間にか身に付いたものだと説明されている。幼少時における人格の形成に大きく係わったエピソードが能力を形作っているという点では咲さんの「嶺に咲く花(仮称)」と同系統だと言える。しかし、もし玄が誰に言われるでもなく阿知賀こども麻雀教室の部室を掃除しつづけて、帰ってくるかどうかも分からないみんなを「待つ」ような人間でなかったら、オカルトとして発現することはなかったと思う。玄のドラ支配は宮永照を相手にしても揺らがないほど狭くて強い能力である。その強力さからは母親や旧友、かつての居場所を大切にする玄の優しさ、思いの強さが伝わってくる一方、同時に受け身で依存的な側面も感じられて何とも物悲しくなってくる。だからこそ、あのインターハイ準決勝先鋒戦のハイライトにおけるドラ切りが痛烈に心を打つわけだが、それについてはまた別の機会に語ろう。玄の妄執的な側面と常軌を逸した意志力・継続力(言い方が悪いだろうか?)は、部長と同様に魔物の片鱗を感じさせる。なお、部長と玄の関連性について語っているブログは既に複数あって、『咲-Saki-』勢の手強さを改めて痛感した。
穏憧と魔物の数字(100速の穏、高校100年生の淡、100巡先を視る怜)について真面目に語る
 以前の記事で、麻雀部すら存在しなかった阿知賀女子にインターハイのファイナリストを狙えるチームが爆誕したのは、魔物候補生であるしずの豪運とスケールの大きさの賜だろうと書いていたが、最近では玄のドラゴン……強者を呼び寄せる能力の影響もかなりのウェイトを占めているのではないかと思いはじめた。じっさい宥姉(県予選から全国大会準決勝まで全てプラス収支)と灼(全国大会準決勝で区間2位)は誰あろう玄の人脈である。また、玄がAブロック二回戦で怜(全国ランキング2位校のエース)、準決勝で照(高校生一万人の頂点)と、全国でも最上位の化け物と立て続けにエンカウントしている不運については各所で指摘されているが、これもドラゴン=怪物と拡大解釈すれば(たしか悪魔を指す言葉でもあり、ドラキュラの語源でもあったはずだ)、彼女の能力の一部(副作用?)とも考えられるのではないだろうか。

 例えば、花田煌の「すばらっ」(仮)だ。すばらの能力は彼女の不撓不屈の精神力が反映されている。一体どれだけの人間が、自分がレギュラーに抜擢されたのは他校のエースにぶつける捨てゴマにするためであり、ある意味殺されに行くことが仕事だと知ってしまった上で、腐らずに笑顔で試合に臨めるだろうか? どれだけの人間が、夢に描いていたであろう檜舞台で、嬲り者にされたり、事情を知らない人間から戦犯の誹りを受けたりすることを承知した上で、笑って舞台に立てるだろうか? いざ試合に臨み、並み居る実力者らに圧倒的な実力差でチンチンにされた後でも、果敢に攻めていこう、楽しんで打とうという姿勢を続けられるだろうか? そして、そんな極限の状況下で「すばらっ」と共闘者を称えることができるだろうか? すばらのどんな相手でも絶対にトバない能力は、彼女の気高い精神の結晶体、あるいはその気高さを護るために天が与えた加護だろう。
 余談だが、もしすばらが与えられた捨てゴマの役割を「私一人が犠牲になることで――」と滅私してこなす聖人君子だったら、私はここまで好きになることはなかったと思う。あの絶望的なシチュエーションでも「わかんない! おもしろい!」と感じられる図太さ、ふてぶてしさも持ち合わせているのがすばらっ! なのだ。
咲-Saki- 「楽しい」「遊ぶ」「お祭り」まとめ

 『咲-Saki-』のオカルト能力麻雀は荒唐無稽だ。どれだけ敬虔な信者でも認めざるを得ない荒唐無稽さだ。「悪待ち? 体のいい主人公補正だろ」「捨て牌が見えない? どんな危険牌を切ってもロンされない? 何だよそのクソゲーは」「一試合で海底撈月が四回? ふざけるのも大概にしろよ、麻雀舐めるな」「ドラが全て集まる? そんなチート能力持ちのくせにピーピー泣いてるんじゃないよ」というニワカの意見も少しは分からないではない。にもかかわらず、能力者が奮闘する姿が幾多の読者の心を揺さぶってやまないのは何故だろうか? 部長が強豪校のレギュラーを向こうにして悪待ちの和了を連発する姿に興奮し、モモが実生活ではマイナスにしかならない能力で格上の相手を出し抜いたことに拍手喝采し、衣の神懸かりで他家を寄せ付けない打ち筋に惹かれるのと同時に寂しさを感じ、玄が自らの意思でドラを切り、それでもなお「待つ」ことを選んだのにボロ泣きし、すばらの窮地でなお「自分が納得できるほう! 誰もトバさせない!」と啖呵を切る強かさに胸を打たれるのは何故だろうか? 私はそこに各選手のパーソナリティや抱えているものが透けて見えるから、能力バトルが人間ドラマと美しく絡み合っているからではないかと思っている。

 次回の『咲-Saki-』関連記事も能力バトル要素について語る予定なのでよろしければお付き合いいただきたい。

4757517823咲ーSakiー 1 (ヤングガンガンコミックス)
小林 立
スクウェア・エニックス 2006-12-25

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4088511263ジョジョの奇妙な冒険 1 (ジャンプ・コミックス)
荒木 飛呂彦
集英社 1987-08-10

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